日々のニュースや出来事への詩的な感想録

ブログ管理人が日々に感じた事を、ざっくりとした適当な詩的表現で綴っています。まだまだ未熟さを自覚している者が推敲もせずに書いたブログですので、読みにくさ、誤り等あると思いますが読んでみてください。

問題発言への批判について

ある地方の教育委員を務める方(どこの都道府県かは伏せさせて頂く)が

県の会合の席で
「妊娠初期に障害の有無が分かるように判別できないか?」
と発言した事が問題になっている。
この発言に対して責任をとる形で、この発言をした方は委員を辞める事を申し出ている。
「発言の真意は障害の方が生きていなければいいということではなかったが、騒ぎになってしまったことを悔やんでいる。」
「配慮が足りなかった。」
とのことである。

 

確かに、障害児を持つ親御さんの方々からすると、不快感を感じさせるような発言だったかもしれない。

しかし、だからといって、ここまで取り沙汰されるような、問題のある発言であるのだろうか?
誰か特定の人を名指しして、そのような発言をしたのであるならば、その発言を受けた人は、直接そのような発言を受けた事になるのであるから、傷つく事になる。
教育委員会の委員という立場の方にこのような発言を受けたのであれば、問題のある発言であるだろう。しかし、だれか特定の人を指して発言したのではない。

 

障がいを持ちながらも、それをマイナスに捉えずに、努力、精進されて素晴らしい活躍をされている方々はたくさんいらっしゃる。

例えば、パラリンピックに出場されているアスリートなどは、ハンデを克服するために、人並み以上の努力をされ、素晴らしいパフォーマンスを発揮されている。

また、スポーツのみならず、学問などの分野でも、障がいのハンデを乗り越えようと、人並み以上の努力をされ、素晴らしい活躍をされている方々もいらっしゃる。

いずれは医学の進歩が、現在では望ましい改善が不可能であるような、生まれ持った障がいさえをも、治療可能にするかもしれない。

そうなれば、先天的な障がいを持って生まれた方も、生後の処置で不自由なく生活できるような社会が実現するかもしれない。
しかし、今現在は、そのような医療技術は確立されていない。

障がい者本人やその保護者の方々は大変な苦労を強いられているのは事実であり、問題となっている発言をされた方は、その事に対して、つい率直な感想を述べてしまっただけではないだろうか。

問題となった発言の後にも
「発言の真意は障害の方が生きていなければいいということではなかったが、騒ぎになってしまったことを悔やんでいる。」
と謝意を述べられている。

最近になって、どうも何かしらの発言に対して、少しでも倫理的な面で不適切と見られるような点が見受けられると、過剰に反応しバッシングをし過ぎてしまうような風潮が形成されているように思うのだ。

こうなってしまうと、社会的なバッシングを恐れる事で、言論の自由が徐々になくなってしまうのではないだろうか?
とも思うのだが、考え過ぎだろうか?